医学の革命書P 医学の革命書 上 第六部 伝染病並結核論
伝染病と黴菌 黴菌は有難いもの 伝染病恐るるに足らず 赤痢菌 赤痢流行に就て 文化の迷蒙 結核問題 結核は絶対に伝染しない
| 第六部 伝染病竝結核論@ 伝染病と黴菌 今日医学に於ては、病原は悉くといいたい程黴菌に 因るとされている。そうして微小にして顕微鏡でも見 る事を得ない黴菌を濾過性黴菌と称している。 医学に於ける解釈は次の如きものである。 「感冒、ヂフテリヤ、百日咳、麻疹、流行性耳下腺 炎等の病気は、泡沫伝染という事になっている。これ は戸を閉め切った室内や乗物の中で、患者の唾や咳嗽 の際など、霧の如く唾と一緒に飛び出し、空気中に浮 遊しているのを吸込んで感染するのである。そうして 老人は比較的免疫になってをり、青年特に小児が侵さ れ易く、患者に一米以上接近してはならない」という 事になっている。斯様に殆んどの病気は黴菌に因ると いうのであるから、これを信ずるとしたら現代人は生 きて行く事さへ恐怖の極みである。 仮し医学が謂う如くでありとすれば、社会生活など は到底不可能であろう。先づ汽車、電車へ乗る事は危 険である。隣の乗客は何かの伝染性病気に罹っている かも知れない。窓を閉め切れは満点の際など少くとも 数人以上の結核患者は勿論、他の伝染性患者もいるで あろうから、空気伝染の危険は免れ得ない。又人と談 話する事も危険である。先方は伝染性疾患を保有して いるかも知れない。と言って一々三尺以上離れるとい う事は実際上不可能である。其の他劇場、映画館等多 数人の居る所は危険千万である。 − という訳になろ う。 故に、医学の理論を信奉するとすれば、先ず社会と 全く絶縁しなければならない。即ち山奥の一軒家か、 海上遥か沖合で船住居をするより他に理想的方法はな いであろう。吾々が割合恐怖感に捉らはれないで生活 し得るという事は医学の説を丸呑みにしないからであ る。 そうして右の如き空気伝染以外一層危険であるのは、 銭湯へ入浴する事は勿論、手指の接触による場合、即 ち電車の吊皮、扉のハンドル又は貨幣であろう。特に 貨幣が多数人の手指に触るる関係上黴菌の巣窟ともい うぺく最も危険とみなければならない。之に就て左の 如き調査報告を示してみよう。 「北大医学部衛生学教室阿部三史学士が、郵便局、銀 行、市場、デパート、食堂、食料品店、個人等多く利 用される処から十円札、五十銭銀貨、拾銭白銅、拾銭 ニッケル、一銭銅貨等、取りまぜ、三百四十五個を集 めその銀貨なり、札なりに附着している黴菌を研究し た結果、左の如く大腸菌、パラチブス菌、葡萄球菌、 コレラ菌、分裂菌等々数え切れない程の黴菌が附着し ていた。これ等は何れも人体に害を及ばすもので、殊 に小さな子供等が無心で銅貨、 貨等をなめているな ど大いに注意を要するものであり、一方多くの人は、 銀貸、銅貨に結核菌が附着していると思っているだろ うが、阿部氏の研究では結核菌は案外少なく、人体に 及ばす程の偉力は無いと言われている。 「各種貨幣の黴菌数」 (昭和十一年六月調査) 先ず拾円札、五拾銭、拾銭、一銭、各一枚にどれだ けの黴菌が附着しているかと言うと △拾円札には普通黴菌が最高拾六万九千五百個で平 均五万二千四百九十一個 △五拾銭銀貨には平均千五百五拾九個 △拾銭白銅には二千四百七十個 △拾銭ニッケル白銅には二千二百三個 △一銭銅貨には千三十二個 等である。 「病菌の種類」と数 更に大腸菌、チブス菌、パラチブス菌等がどれだけ 附いているかと言えば − △拾円札には 五十四個 △五拾銭銀貨には 四個 △拾銭白銅には 三個 △拾銭ニッケル白銅には 一個 △一銭銅貨には 四個 等で、拾銭ニッケル白銅が他の貨幣より少ない事は、 発行されて間もない事によるもので、なお一銭銅貨に は比較的黴菌の附着数が少ない事は銅自身が持ってい る殺菌性に依るものである。 「場所と黴菌」数 然らば、何処で使われている貨幣に最も多くの黴菌 が附いているかといえば、一番多いのが市場、次いで 郵便局、日用雑貨品店、百貨店、食堂、菓子店、食料 品店、個人所有等の順序になっており、個人所有が一 番少ないが、これは財布の中に入れられる関係 空気が外部と異って流通しない為、肘着した黴菌が培 養されない為である。」 − 以上によってみても、貨幣には多くの凡ゆる病菌が 附着しているかを職るであろう。然し乍ら貨幣を手に 触るる毎に一々消毒するという事は何人と雖も不可能 である。然らば此の問題は如何にして解決すべきやと いう事であるが、それは容易である。即ち病菌が体内 に侵入しても発病しないという健康体になる事である。 然らば其の様な健康体になり得るかというに、私の創 成した健康法に依れば可能である。 然し乍ら、病菌は医学で唱うる如く恐ろしいもので あるかというに、それ程ではない事を左の如き調査報 告によって証し得るのである。 それは、昭和十年九月三日の読売新何の記事によれ ば「東京に於けるバ夕ヤ即ち屑を扱う人何が一万二千 人程居るが、市社会局では昨年十二月中旬、足立区を 中心として認可のある屑買入所々属の拾ひ子に就いて詳 細な調査を行ったが、二日其の結果を発表した。それ によると、あれ程不衛生な仕事に従事していながら、 彼等の間に伝染病其の他の病人の少ない事は意外であ る。そうして調査人員二千四百十五人の中、女子は僅 かに六十人の少数であった。調査人員の年齢は三十一 歳から五十歳に至るものが一二九九人を数えて、全員 の過半数を占めている。健康状態は慢性胃腸病患者 が最も多く、次にアルコール中毒者という順序である。 そうしで伝染病、肺結核、性病が割合少ないのである。 即ち二四一五人の中、健康なるもの二一二三人、虚弱 者八十五人、老衰者五十八人、不具者三十五人、廃疾 八十五人、其の他疾病三十二人となっている。 右の調査に依ってみても明らかなる如く、病菌によ る伝染病は殆んど無いといい得る程である。而も二六 時中最も病菌に接触すべき職業者にして斯くの如しと すれは、その意外なるに驚ろかざるを得ないのである。 そうして、一体此の世に存在する限りの如何なるも のと雖も、人間に不必要なものはない筈である。若し 必要の為の存在であったものが人類の進化によって不 必要となる時代になれば、そのものは自然陶汰されて 滅消さるべきが真理である。故に人間が無用とか有害 とかいうのは、そのものの存在理由が不明であるから である。即ち人類文化がそれを発見するまでに進歩し ていないからである。此の意味に於て、凡ゆる病菌と 雖も人類の生存上有用の存在でなくてはならない筈で ある。 抑々伝染病と雖も、他の疾患と等しく浄化が頗る強 烈であり、従而、急速に生命を奪われる為に人間は怖 れるのである。然らば如何なる理由によって伝染病は 強烈であるかを説いてみよう。 人体血液中の汚濁が或程度濃厚になった場合、汚濁 の排除作用が発生する理由は既説の通りである。その 排除作用を一層促進すべき必要が病菌の存在理由とな るのである。 病菌が先づ食物又は皮膚面から侵入するや病菌と雖 も生物である以上、食生活に依らなければ生命を保持 し、種族の繁殖を計る事の出来ない事は他の一般動物 と同様である。 然らば病菌の食物とは何ぞやというと、それは血液 中にある汚濁である。従而濁血多有者程病菌の繁殖に 都合の好い状態に置かれている訳である。此の理由に よって発病者と未発病者との区別は、即ち発病者は濁 血者であり、不発病者は浄血者であるという事になる。 又保菌者というのは濁血小量者であって、病菌が繁殖 する程でもなく死滅する程でもないという中間的状態 である。 以上の意味によって病菌なるものは人間中の淘血保 有者に対し速やかなる浄血者たらしめんが為の掃除夫 ともいう可きものである。 此のような有用微生物を、 医学は強力なる逆理的浄化停止を行う以上、死を招く 結果となるのである。それのみではない。 医学は免疫 と称して、種々の伝染病の予防注射を行うが、之が又 人間の浄化力を弱らせ体力低下の因となるのである。 茲で注意すべき事がある。近来膝下に小腫物の発生 が多いが之は、予防注射の薬毒が下降し溜結し排除さ れんとする為で、放任しておけば、自然治癒するから 何等心配する必要はない。 医学に於ては、白血球が赤血球中の病菌に対し食菌 作用を行うというが、右の原理を知る以上問題にはな らないであろう。 又世人が非常に嫌う蝿なども、血液 掃除夫を運搬するのであろから、彼も亦人間にとって 重要なる存在であるが、それは現在淘血者が多いから で、将来浄血者が多数になれば蝿の存在理由が無くな るから自然陶汰さるる訳である。 私は伝染の名を誘発と唱えるが本当と思う。本療法 は淘血者を浄血者たらしむるのであるから、本療法が 普及するに従ひ伝染病は漸次減少する事は必定である。 (昭和22年月五日 天国の福音) 先頭へ 黴菌は有難いもの 此の題を見た人は、信者ならイザ知らず第三者とし たら吃驚仰天私の頭脳を疑ひたくなるであろう。然し 之は真理である。最高の霊科学である以上、よく読ん で深く考えて見れば、成程と思はざるを得ないであろ う。単に黴菌と言っても、茲では病気に関したのを言 うのであるが、此の黴菌なるものは、何が為に存存し、 人間に害を与えているかという事で、之を徹底的に検 討する事こそ、現代文化に対しての最重要問題であろ う。 尤も此の事は専門家諸君に於ても常に研究努力して いるには違ひないが、今日迄の科学の程度では黴菌の 本体等到底把握出来る迄に到っていないのである。そ れ処ではない。現に目の前に蔽ひ被っいる結核や伝 染病等の問題にしろ当事者は全身全霊を打ち込んでい るに拘わらず、何等の見るべきものはない現状である。 というのは、全く其の観点が根本的に誤っているから で、医学に於ては唯、殺菌等によって伝染を防ぎさえ すれば可いとのみ思っている丈で、謂わばいつも私が 言う結果論的見方で、外殻だけを対象としているに過 ぎないのである。処が原因は中心の奥深い処にあるの だから、其の点に気が附かない限り、何程多額の費用 を使い、如何程努力したとて、徒労以外の何物でもな いのである。遠慮なくいえば、現在の黴菌医学はまだ ホンの揺藍時代といってもいい位のもので、実際に役 立つのは、何時の日か見当もつかないのである。 偖て、之から私の言わんとする処を書いて見るが、 抑々此の地球は人間の世界であって、人間が主人公で あるから、万有一切は人間に必要なもののみで、不必 要なものは一つもないのである。従而、病気なるもの も、其の病原である処の黴菌と雖も、悉く大いに必要 の存在であるに拘わらず、それを無用有害物として忌 避し、絶滅させる事のみに専心しているが、之こそ全 く根本が判らないからである。故に、黴菌その物の本 体さえ分ったなら之程人間の健康に有用なものはない のである。とはいうものの此の事の説明に当って困る 事は、今迄の学理と比較して余りに驚異的であるから、 此の理を納得するには、余程心を虚心坦懐白紙になっ て精読されなければならないのである。 そうして私の唱える病原とは、いつも言う通り、人 間には絶えず毒素即ち濁血が溜まるので、それを排除 して了わなければ活動に不便を及ぼすから、濁血を排 除し浄血者にすべく自然浄化作用というものが発生す る。其の際の苦痛が病気であるから、言わば病気とは、 体内の清潔作用なのである。例えば、人間は誰しも外 表である皮膚に垢が溜まると、入浴という清潔法があ るが、中身である五臓六腑にも同様垢が溜まるので、 其の清潔作用が病気というものである。としたら神様 は実に巧く作られたものである。之は嘘でも何でもな い。病気になるや、痰や、洟、目脂、涎、盗汗、下痢、 腫物、湿疹等の汚物排除作用が起るではないか、だか ら出るだけ出てしまえば後はサッパリとなって、健康 は増すのである。 処が不思議も不思議、斯んな入浴などと違って、一 文の金も要らずに済む結構な掃除を一生懸命止めて出 さないようにする、それが医学であるとしたら、何と 馬鹿々々しい間違いではあるまいか。何が間違ってい るといって、之程の間違いは恐らく外にあるまい。従 って此の間違いのために健康な肉体を弱くされ、長生 きの出来る体を早死するようにされて、平気処か有難 がっているのだから、今日の文化人なる者は全く「哀 れなる者よ、汝の名は文化人なり」である。 処がもっと厄介な事がある。 それは汚物を出さないようにする 其の手段に汚物を用いるのであるから、反って汚物を 増す結果になるという誤り方である。従って此の道理 さえ判ったなら、病気程結構なものはない事を知るで あろう。 そこで愈々黴菌論であるが、人体の汚物とは勿論血 液の濁りであって、此の濁りを無くしてしまうにはど. うすればいいかというと、神様は洵に面白い方法を作 られた。それは黴菌という目にも見えない細かい蟲に よって、掃除させるので、そこで神様は此の蟲を湧く ようにした。 即ち黴菌発生根源を作られたのである。此の事に就 ては拙著文明の創造中の科学篇に詳しく出ている から茲では略すが、免に角黴菌という微生物は最初濁 血所有者の血液中に入り込み、濁血を浄血にする役目 をするのである。それはどういう訳かというと、濁血 というのは血液中に有ってはならない言わば不純物が 存在しているのである。 面白い事には、不純物という微粒子は、実は黴菌の 食物になるのであるから黴菌はそれを食いつつ非常な 勢を以て、繁殖し食うだけ食った奴から排泄物に混っ て体外へ出てしまうから順次濁りは減り、遂に浄血者 となるのである。其の際の発熱は黴菌が濃度の淘血で は食い難いから、液体に溶解して食い易くする為であ る。だから此の理が判ったなら、黴菌というものは、 全く人間体内を清浄にする掃除夫なのであるから大い に歓迎すべきものなのである。 処で問題なのは、一体濁血というものは、どうして 出来るかという事で、之こそ万有相応の理によって、 実に合理的に造られるのである。というのは人間は、 神様の定められた役目を自覚し、それを正しし行えば よいが、多くの人間はつい不正や、過ちを冒し易いの で、その結果霊が曇り、霊が曇ると血が濁るので、そ れが病の元となり苦るしみとなるのだから、つまり過 ちに対する刑罰という訳で、斯うしないと人間は正当 に役目を果さないのみか、世の中へ害を与えるから止 むを得ず神様は、そういうように造られたのである。 従って人間が正しい行いさえすれば、濁血者とならな いから、黴菌は湧かず、病気は此の世から無くなるの である。之が真理であってみれば、病菌というものは 人間が作って人間自身が苦るしむのであるから、何と 愚かな話しではないかという其の事を教える為に此の 文を書いたのである。 (昭和二十六年八月一日) 先頭へ 伝染病恐るるに足らず 之から夏期になるに従い諸種の伝染病が続出すると して、当局は大童になって予防方法や色々の施設に懸 命であるが、吾々からみると洵に情けないのである。 何となれば医学は其の根本が分っていないからでもあ るが、根本さえ分ってみれば何の心配も要らないばか りか寧ろ伝染病に罹ればそれだけ健康は増すのである。 其の何よりの証拠は伝染病が治ると当分は発らないば かりか、病種によっては一生免疫となり、健康はより よくなるのである。斯んな事を言うと現代人は到底信 じられないだろうが、それが真理だから仕方がない。 そこで其の理由を詳しく書いてみるがこれを読んだら 何人も成程と合点がゆくであろう。 抑々伝染病なるものは、最も急速に行われる浄化作 用であって、之程結構なものはないのである。という のは今日の人間は非常に血が濁っている。此の原因は いつもいう通り無暗に薬を体内に入れるからで、薬は 元々毒であって其の毒が血液へ吸収されて濁血者とな るのである。処が濁血者は虚弱で病気も発り易いから、 茲に自然は其の濁りを排除すべき浄化作用が発るので、 人体は実によく出来ているのである。処が面白い事に は其の濁りを解消する作用として黴菌という微生蟲が 発生して其の仕事をする。即ち黴菌は其の濁りの微粒 子を喰いつつ繁殖するのであるからつまり濁血の不純 物こそ黴菌の食物になる訳で殖菌作用ではなく食毒作 用である。 右のように浄化作用が起るという事は人間ばかりで はない。地上一切の物に対しても同様で之が万有の原 則である。 即ち暴風雨も雷火も空間の浄化活動であり、戦争も 火災も洪水も勿論それである。従って人体も血液が濁 れば浄化が発るのは自然の生理作用であるから伝染病 に罹らないようにするには、血液を濁らせない事であ る。では浄血者になるにはどうすればいいかというと 甚だ簡単である。即ち薬を用いなければいい、何とな れば人間が生きるに必要なものは自然に作られる。五 穀、野菜、魚鳥獣肉、水等がそれであるから、それを 飲食していれば決して病気に罹る筈はないのである。 何よりもそれ等悉くに味があるという事は、其の物自 体が食うべきものである事を教えている。それをどう 間違えたものか、苦い薬を服んだり不味いものを栄養 あろう。そればかりか結構な浄化作用を患い意味に解 釈し薬という毒物で一時抑えをする其の方法が医療で あるから之程聞達った話しはあるまい。 以上の理が分ったなら伝染病は恐ろしくないばかり か健康上必要なものである。そうして本教浄霊の意味 であるが、浄霊とは黴菌の食物である血液の濁りを解 消して了う神力であるから、黴菌の食物がない以上仮 令伝染しても繁殖出来ず死滅して了うのは当然で之が 根本的伝染病防止法である事が分るであろう。 (昭和二十七年七月九日 栄光一六四号) 先頭へ 赤痢菌 吾々が常に不可解に思っている事は、近頃のように 赤痢が流行し各地に患者が続出するので、当局者は伝 染系統を謝ぺるに大童になっているが、吾々には此の 意味が分らない。何となれば此の病気の原因が、一人 容易でない事は勿論で、或程度以上は不可能であろう。 今仮に川水などに菌のある場合、本当に徹底するとし たら沿岸の住民悉くを調べなけれはならないから費用 も手数も大変なものになろう。それまでにして一番最 初の患者を探し当てたとしても、其の患者は誰からか 染ったに違いないから其の先の誰かを探し出さなけれ ばならないし、又其の先の先の誰かを追求しなけれは ならないというように限りがないから、実際上の間に 合わないのは勿論で全くナンセンス以外の何物でもある まい。 では茲に此の真相を知らせるが、成程赤痢菌は伝染 するにはするが一番最初の患者の菌は其の人間から自 然に湧いたものであって、此の病気はいつもいう通り 頭の毒血が排泄される浄化作用であるから健康上寔に 結構なものである。従って自然に放っておいても必ず 治り絶対に生命の危険はないものである。 (昭和二十七年八月六日 栄光一六八号) 先頭へ 赤痢流行に就て 新聞紙の報ずる処によれば、今年の赤痢は空前の数 字に上るだろうとの警告を当局は与えている。何しろ 昭和二十三年約一万、翌二十四年は三万、翌々二 十五年は五万、昨年は十万というように、一年に恰度 倍位宛殖えてゆくので当局の推定によるも今年は二十 方を越すであろうとの事であるから恐るのも無理はな い。それがため予防法に就ても、アレヤコレヤと色々 心配をして居りヽ最近は非常に効果ある特効薬が出来 たなどとの報告も新聞に出ているが、之などは吾々か らみれば眉唾物である。其の他日常生活に就てもヤレ 食事の前に手を洗え、生物は食うな、外食はするな、 下痢をしたら早速医師に診て貰えなどと何やかや面倒 注意を与えているが、之等消極的方法より外に考え ようがないとしたら、現在の医学は如何に此の病気に 対する有力な対策がないかという事を物語っている。 以上の如き医学の貧困な実状では今後の流行の波を 押切る事は到底出来まいから、茲に、私は神示の医学 によって根本原因を教えようと思うのである。然し信 者以外は中々信じられないであろうが、之が真理であ ってみれば信ずる信じないは別として書くのである。 此の間も簡単に言った通り、此の病気は体的に言えば 頭脳に溜った毒血の排除作用であって、其の原因とい えば、現代人は矢鱈に薬を入れるから薬毒は体内に充 満し之が血液を濁している。所謂濁血多有者が殆んど である。そこえもっていって、現代人は非常に頭を使 うから其の部に濁血は集溜する。即ち神経を使う処理、 淘血が集まるのは人体の原則であるからである。何よ りも後頭部と延髄部に触れてみればすぐ分る。即ち其 の部には必ず固結があり、微熱もあって、それのない 人は殆んどない位である。処がそこえ浄化作用が起り 発熱によって急激に溶け始め、下降して一旦腹部に滞 溜するや、間もなく下痢便となって排泄される。 之が 赤痢であるから、実に結構な排毒作用であって自然の 健康法である。其の証拠には予後は頭痛、頭重、朦朧 感等の持病のある人は必ず軽くなって頭脳も明晰とな るのである。処が之を知らない医学は下痢を悪く解釈 から之で治ったように思うが、実は残された濁血は固 結するか又は他の病源となるので、何れは再発か、他 の悪性病気は免れないのである。 右は体的面であるが、次に霊的面を書いてみるが、 之も私は以前から説いている如く、霊界に於て夜の 世界から昼の世界に転換するにつれて段々明るくなり、 火素も増えるから、浄化は益々旺盛となる。其の表わ れが今年の如く今迄にない赤痢流行となったのであっ て、まだまだ斯んな生易しい事では済まされないから 覚悟しなくてはならない。 之に就ては結核も同様であって、近来の如く浄化停 止に効果著るしい新薬が続出するとしたら成程一時は 固まるので、患者は小康を得、死亡率も減るが、其の 後に到って必ず狂烈な浄化発生し悪性結核氾濫時代と なり短期間に死亡する者数知れずという事になるから、 赤痢其の他の伝染病と相侯って、空前の恐怖時代が出 現するのは間違いないので、私は今筆に口に警告を与 えているが実は此の予言が的中しないよう望んで止ま ないが、それは先ず不可能であろうから其の時になっ れであろう。従って命の惜しい人は一日も早く本教え 入信し如何なる恐怖時代が来るともビクともしない信 念と体質とを作りおくべきで、それより列に方法はな いのである。此の事は寧ろ原子爆弾処ではない。原爆 の恐怖は戦争当事者のみであるが、之は人類全般に渉 っての浄化作用である以上、一人も漏れることは出来 ないからである。キリストの曰った世の終りとは 此の事でなくて何であろう。 (昭和二十七年六月二十五日 栄光一六二号) 先頭へ 文化の迷蒙 周知の如く現在の日本としては対外問題は別とし、 対内問題を見る時、何が最も難問題であり、急速に解 決しなければならないかというと、勿論結核問題であ って之以上重要なものはないといってもよかろう。 他の如何なる間題でも智能と、金銭と努力によれば 必ず多少の効果を顕わし一挙に解決が出来ないまでも 漸次的に解決に向うのは一つの例外もあるまい。然る に独り此の問題のみは、年々多額の費用を使い、官民 共に能う限りの努力を払いつつあるに拘わらず、何等 効果を見ないばかりか、寧ろ年と共に増加の傾向さえ 見らるるのである。故に此の問題を吾々は何物にも捉 らわれる事なく白紙となって冷静に検討して見る時、 前途は全く悲観の一途あるのみである。 とはいうものの、当局者も専門家も確信ある医学的 智識によって対策を考究し遺憾ないと思う程の施設方 法を採り努力しつつあるのを見れば何人と雖も相当の 効果を奏し、結核は漸減するに違いないと思わざるを 待ないのであるが、豈計らんや、結果はそれを裏切っ て前述の如く減る処か益々増えるというのであるから、 普通ならば疑念を起さなければならない筈であるに拘 わらず、些かも其の様な事なく、飽まで馬車馬的に不 確実な方法を続けているのである。而もそれによって 人民の血や汗の結晶である巨額の税金は徒らな浪費と なり多数人間の努力も空費となるに至っては軽視する 事は出来ないのである。 処が吾々の曰いたい事は、現在政府が行いつつある 結核対策費の万分の一にも足りない少額の費用を以て 結核は完全に治癒され、患者も漸減させる事が可能な のである。之は単なる言葉だけではなく日々多数に上 る生きた実例によっても明らかであり、其の報告は本 教刊行物の新聞、雑誌に満載されつつあるにみて、一 点の疑う余地はあるまい。処が此の記事は結核対策の 任に当る人の幾人かは必ず見ない筈はないと思うが、 今日迄それに閑し訪ねて来た者は一人もないのである から実に不可解である。 先ず神経の通っている人間なら、右の記事を見た以 上、首を捻って本教が誇示するが如き事実が果してあ りや否やを進んで検討しなければならない。事実之程 官民共に年々努力を払っていてさえ容易に治らないも のが、薬も機械も使わないで治るとは本当とは思えな い程で、若し本当とすれば大問題であると共に、そう でないとすれば怪しからん宗教であるから断乎たる処 置に出なければならない訳になる。 従って何れにせよ、 大いに検討の必要ありとして乗り出さなければならな いに拘わらず、其の様な事は今日迄ないとすれば、彼 等の心理こそ実に解するに苦しむのである。 察する に宗教だからと言う唯それだけの理由でしかないので あろう。又今一つは彼等の考えは結核問題解決は唯物 科学より外には世界中絶対ないと信じて決めてしまっ ているからでもあろう。恰度幕末期に於ける切支丹バ テレンを恐れた人達と同様処か寧ろそれ以上の封建的 考え方ではあるまいか。 本当から言えば急を要する此程の問題であり乍らど うしても医学では予期の効果を得られないとしたら、 他に方法を求めるべきである。即ち結核が医学以上に 治るものでさえあれば何でもいいとして大いに探すべ きであって、それより外に問題解決の鍵は絶対あり得 ない事を断言するのである。としたらそれに当嵌るべ きものは、本教浄霊以外他には決してないのであるか らそれを実行さえすればそれで此の難問題も容易に解 決出来るのは火を視るよりも瞭かである。而も至極簡 単に費用も殆んど掛らないで目的を達し得るとしたら、 何を苦るしんで在来の方法を固守しつつ目を他に転じ ないのであろうか、其の盲点は見るに忍びないのであ る。本教が数年前より実際効果を何程知らしても目を 弊うで見ようとはせず、如何に声を嗄らしも耳には 入らないという現代知識人にも困ったものである。之 が御自分だけの開題なればいいかも知れないが、それ がために幾千万の人命が犠牲になるとしたら、之以上 由々し問題はあるまい。寧ろ戦争にも劣らない悲劇 と言ってもよかろう。 以上の如く随分私は思い切って言わざるを得ないの は、全く現在の急迫せる事態を観るに耐えないからで、 茲に一大警告を与える次第である。 (昭和二十六年月二十一日 栄光九六号) 先頭へ 結核問題 結核問題はヨーロッパに於ては略々解決せりと言わ れているに拘わらず、日本に於ては輓近大問題となっ ている。此の同一の結核問題がヨーロッパと日本と反 比例しつつありという事は洵に不可解である。私はそ れ等に対し以下解説してみる。 世界の主要文明国での結核は四五十年前より逐次減 少しつつあるに対し、独り日本に於ては逆に増加して いる。先ず現状に就ての日本に於ける結核による死亡 者を見れば、三十年前に比較して約三〇%の増加を示 し、昭和八年(一九三二年)には十二万六千七百四人 に達し、彼の赤痢、室扶斯チフス、虎列刺コレラのよ うな伝染病に よる死亡者の総数に比較し、優にその四、五倍に上っ ている。尚結核患者の数は専門家の推定によると、死 亡者数の十倍即ち百二十万人を下らないものと認めら れている。之を人口に割当てる時、五十人に一人とい う事になる。然し乍ら実際は右の三倍に上っていると 当局者は言明している。 次に各国に於ける古い時代から現在に至る療法の概 略を示してみよう。 結核が初めて医学史上に表われたのは古い事である。 即ち西暦紀元前四百年に希腹の医聖ヒポクラテスは肺 癆を説き、其の後紀元前後の頓には其の療法としては、 チエルズスは海浜、ブリニウスは林間説を唱え、ガレ ンは山嶽及び牛乳療法を主張したのであるが、今より 約八十年前に到って初めて独逸のヘルマンブレーメン が一定の療則を定めて療養所を創設し、今日のサナト リウム療法の真髄を築いたのである。 其の間日本に於ては天正五年(西暦一五五九年)丹 波康頼は「医心方」を著わして肺結核を伝染病として 論じ、又文化二年(西暦一八〇五年)橘南蹊は結核 に伝染と遺伝とあるを説き、本間玄調は此の病毒が伝 染毒なる事を専ら論証したのであった。 西暦一八八二年にロベルト・コッホが結核菌を発見 してから初めて結核の本体が判明し、同一八八九〇年 コッホは有名なるツベルクリン療法を創始したのであ る。 然し此の療法は病竈ソウを刺戟して抵抗を増させる事 実は認められるが、之が病症の如何に係わらず応用さ れた為に重症者や恋化する者が続出し予期の成果を収 め得られなかった。 このツベルクリン療法に刺戟されて其の後夥多の免 疫化学両方面の真摯な研究が続けられたのであるが、 何れも臨床上確実なる効果ある方法が発見されなかっ た。是に至って再びブレーメンの自然療法が結核療養 の本道として認識されるようになったのである。 現在世界に有名な米国のトルウドウ療養所、スイス のレーザン療養所、同じくタボス療養所等はいづれも このプレーメルの自然療法に影響されて設立したもの であって、この自然療法は、栄養療法と共に結核に不 可欠のものとなったのである。 次に医学に於ては治病作用として抵抗力発生に重点 を置くが、医学の解釈によると、抵抗力とは吾々の人 体に侵入してくる凡ての有害物に対して自然の防黎作 用が備はっている。即ち体内に侵入した黴菌を溶解し 殺菌し、その毒素を打消すべき抗菌物質があるという のである。それは白血球の食菌作用などで、之等の力 を総称して抵抗力というのである。 現在ブレーメンの自然療法や栄養項法が推奨ざるる のも、結局体内に栄養を充実さして抵抗力を強め、自 然治癒を計るを目的としたもので、所謂一自己の病気 を治すものは自己の力以外にない」という信念を具体 化したものである。 以上は現在医学の理論と対策を述べたのであるが、 私の発見した結核に就ての解説を為すに当って現在結 核の最も多い日本を対象として述べてみよう。 それは近代日本が特に青年層に結核の蔓延が著るし くなったのは如何なる理由に因るものであろうか。そ うして国家的大施策施しつつあるに拘わらず、以っ て逆効果を来し、国力に及ぼす形響は蓋し甚大なるも のがあるりそれは私の観る所では、政府及び専門家の 結核防止の対策それ自体が結核を増加するという逆効 果となりつつあるからである。 忌憚なく言えぱ医学が結核蔓延の主動的役割を遂行 しつつありという事である。今日医学が肺結核と診断 する患者、特に初期の患者に於ては肺に異状は全然無 いのであって驚ろく可し、その殆んどが誤診である事 である。今日医学上の診断法としては種々あるが、先 ずラッセル(水泡音)の有無、マントウ氏反応、赤血 球の沈降速度、結核菌の顕微細検査、レントゲン写真 等であり、症状としては持続熱、咳蝦、喀疾、血淡、喀血、 羸痩、盗汁、胃腸障碍、呼吸困難、疲労感等であるが、 それ等に就て順次説いてみよう。 病気の真因の項目に於て詳説した如く、感冒防遏の 結果、漸次身体各局部に然毒及び尿毒、薬毒(此の三 毒に就ては別に詳説する)が集滑凝結する。然らばそ の局所とは如何なる所かというに大体一定している。 即ち頭部の全部又は一部、頚部淋巴線、延髄附近、肩 部、腕の付根、肋骨及び其の附近、横隔膜及び胃部、 肝臓部、腹膜部附近、鼠蹊部淋巴腺、肩胛骨付近より 脊柱の両側及び腎臓部等である。之等一局部又は数局 部の毒結が第二浄化作用によって発熱し、咳嗽、喀痰 其の他種々の症状を発生する。其の際医家は感冒と診 断し浄化停止を行うが、其の結果幸いに奏効すれば暫 らくは健康保持の状態を続けるが、毒素は依然として 残存固結し、而も薬毒の追増によって復び浄化発生す る。復、停止するという事を繰返すに於て、停止力よ りも浄化力の方が勝ち、発熱其の他の症状は慢性的と なる。是が一般結核初期までの経路である。 然るに近来医学の進歩によって結核の早期発見を唱 え種々の機械的診断法を行い断定するのである。 そうして夫等の機械的診断法が、医家は固より社会 一般に如何に信じられているかは周知の事実である。 然るにその診断方法が実は誤診の因となり、結核増加 の役目をしているというのであるから問題は大きいの である。それを茲に詳説してみよう。 (一)「ラッセル」とは肺臓の一部に滞溜せる喀痰が、 呼吸の為に一種の喘音を発するのである。此の原因は、 身体各局部に固結させる毒素が発熱によって溶解す ると共に一旦肺臓内に浸透滞溜し、咳嗽による吸出 を俟っているという訳である。故に吐痰によってラ ッセルは消滅すべきであるが、後続喀痰がある以上 容易にラッセルは消えないのである。此の状態を医 診は其の局部に病がある如く誤解するのである。 (二)「マントウ氏反応」とはツベルクリン注射によって 陽性又は陰性の区別を知るのであるが注射の結果、 その部に紅潮又は腫張を呈するを陽性といい、何等 異常なきを陰性という。医学の解釈によれは陽性は 既に結核菌に侵されてをり、陰性は末侵というので あるが、私の解釈によれば之は反対である。その理 由を事実によって解いてみよう。人間が毒蟲や蜂に 刺された場合腫脹を呈するのは、勿論蟲毒に因る浄 化作用の為であるが、それは毒に対する処女的肉体 であるからである。彼の中国人の一部には南京蟲に 刺されても何等の症状のないのは、既に抗毒素の発 生によって解毒せしむるからである。又私の体験に よれば螺子ブヨに刺された場合非常に掻痒を感ずる が、頻繁に刺され慣れるに従い暫時掻痒を感じなくなる。 之等も螺子毒に対する抗毒素発生の為である。 之等 の例によってみても陽性とは結核菌に対し抗毒素未 発生の為であり、陰性とは既に生菌に侵されて抗毒 素既発生であるからである。 そうして結核菌は何等恐るべきものではない。何 となれば決して感染するものではないからで、此の 事に就ては後段に詳説する。 (三)「赤血球の沈降速度」 之は血液の清濁を測定する方 法であるが、いうまでもなく濁血者は血液中に不純 物を保有しているから、浄化作用発生し易く罹病の 機会が多い訳である。然し乍ら濁血者は結核のみ発 病するとは限らない。凡ゆる病源となるのであるか ら、結核のみの病源に限定する点に医学の誤診があ る。 (四)「結核菌の顕微鏡検査」 医学は結核菌の有無によっ て病症の重軽を判定する。即ち保菌者を解放性と称 して警戒する。之は何等の意味はない。何となれば 結核菌は前述の如く感染の憂はないからである。 (五)「レントゲン写真」医学の診断に於てはレントゲン 写真を頗る重用ししているが之に就て解説してみよう。 レントゲン写真に表はれたる胸部の雲翳の有無 大小によって診断を下すのであるが、一体この雲翳な るものは何であるかと言う事である。私の研究によ れば之は胸部又は背部に滞溜せる毒素の固結である。 然るに多くの場合、肺臓の外部即ち肺膜外、肋骨及 び其の附近の筋肉中に溜結せるものであって、肺臓 内部に固結のある事は極めて稀である。ただ此の場 合肺臓外か肺臓内かの区別は容易に判明する。それ は肺臓内の場合は呼吸に影響するからで、呼吸に異 常のない場合、肺臓は健全であるとみてよいのであ る。 又写真は平面的であるから、肺臓の内外前後等の 判別は附け難いのであるが、医学は雲翳さえあれば 直ちに肺結核と断定するのであるから寔に軽率とい うべきである。故にレントゲン写真の診断は不正確 というべきである。尤も医学に於ても正面、側面、 背面等部分的に撮影し、繁ぎ合はして検るという方 法を執る場合もあるとの事であるが、之等は非常に 手数を要し、一般的利用は不可能である。又何人と 雖もレントゲン写真によれば多少の雲翳は必ずある もので、全然ない人は極稀である。 医学は大体右の如き数方法を唯一のものとして診 断を下すのであるが、その適確性を欠く事は右の解 説によってみても識らるるであろう。 次に症状に就て概略説明してみよう。持続熱、咳 嗽、喀痰は曩に説いたから略すが、血痰は毒血が少 真づつ痰に混入するのである。丁度腫物の破れたる 場合、膿液に血液の混入を見るのと同様の理である。 又喀血は毒血が排泄されんとして肺臓内の一局部の 血管の亀裂を生ずる為で之は脳溢血の場合と同様で、 ただ脳溢血は脳に近接せる血管が亀裂するのである。 勿論之等も浄化作用の為であって、毒血は何れかの 排泄口を求めて必ず出血するもので、持出血、赤痢 等も同様である。右の理によって喀血性結核は医学 に於ても治癒し易いとしてあるが、私の経験からい うもその道りである。 羸痩 結核者に羸痩は附物である。此の原因は発熱、食 慾不振、運動不足等によるのであって、特に発熱は体 力の消耗移しいものがある。又食慾不振を緩和する 為健胃剤を用いるが、之は一時的効果はあるが、其 の後に到って反動的に食慾不振を増進させるもので ある。 次に運動は体力増進に効果のある代り発熱の原因 ともなるので、此の取捨按配が難かしいのである。 要は自然に心の慾するままに行動するのが最良の方 法である。 盗 汗 医学の解釈によれば疲労の為というが之は逆である。 何となれば浄化作用の一種であって、熱によって溶 解され液体化した毒素が毛細管から滲出するのであ る。恰度汚れ物を熱湯で洗濯した−その洗い水の如 きものである。故に盗汗者は割合体力がある訳であ る。老人に盗汗者の少いに見ても明らかである。私 の経験上、盗汗者は概ね経過良好である。又感冒の 場合発汗すると治るのも同一の理である。 胃腸障碍 絶対安静によって結核者は運動不足となり非常に胃 腸を弱らせる。之は健康者と雖も絶対安静を永く続 くるに於て、胃腸は睡眠状態となり衰弱するのが当 然である。況んや病者に於ておやである。私は此の 綻対安静程不可なるものはないと思う。此の点も後 段に詳説する。即ち消化薬連続服用が逆効果を来し、 発熱が食慾を鈍らせる等、実に結核者の胃腸障碍は 多くの場合致命的ともいうべきである。 そうして特に注意すべきは、結核と診断された患 者の大多数は化膿固結性腹膜炎を保有している事で ある。此の症状は、腹部は普通の腹膜炎の如く膨大 がないので、医診は発見出来得ないのであろう。腹 部は寧ろ縮小している者さえあるが、触診すると硬 化著るしいのと熱感によって知らるるのである。故 に硬化が胃腸を圧迫し、食慾不振の原因となり、腹 部の同結が浄化排除さるる場合、持続性下痢となる ので、医家は之を腸結核と誤るのである。又此の固 結膿は咽喉、喀痰、呼吸逼迫の原因ともなるので、 之等の脱却症状の患者に対し医家は結核者となすが、 私は之等の患者に対し、腹膜治療を施すに於て漸次 快方に向い遂に所謂結核は治癒するのであるから、 医家の誤診も亦甚だしいというべきである。 呼吸困難 此の症状も結核者に最も多く、患者によって差異が 甚だしいが、何れかといえば悪性である。そうして 此の原因は左の如くである。 (一)肺臓内に毒素滲透し、それが多量の場合肺の容積 が減少する為、必要量の空気を吸収するには呼吸 回数を多くせねはならず、その為の場合。 (二)肺膜外に、既往症である湿性又は化膿性肋膜の 治癒後その残存膿結のある場合浄化発生によって呼 吸に支障を与える。 (三)横隔膜附近の膿結に浄化発生の場合、之が呼吸 に圧迫を及ぼす。 (四)発熱により全身各局部特に肋骨附近にある毒結 が溶解し肺臓に藩@滲透せんとする場合、肺自体がそれ を吸収せんとし、呼吸運動が強化さるる場合。 疲労感 之は発熱及び体力消耗による全身的表弱の為である。 (昭和二十二年二月五日 天国の福音) 先頭へ 結核は絶対に伝染しない 今日結核は伝染するものとして非常に恐れられ、其 の為の国家及び個人の手数や負担の莫大なる事は洵に 驚ろくべきものがある。一般世人の伝染を恐れる事甚 だしく、親子夫婦と雖も接近し語り合う事さえ医師か ら厳禁せられている。従而、家庭内に結核罹病者一度 発生するや、家族等は戦々競々として何時伝染するや も知れずとなし危惧の日を送っている実情である。 成程実際感染するとしたら右の如きも止むを得ない とするも、私の発見によれば結核は決して感染する憂 へはないのである。元来結核菌なるものは伝染ではな く自然発生のものである。それは如何なる訳かという と曩に病原として説いた毒素の固結が体内に残存し、 時日を経るに従ひ腐敗する。腐敗せるものに微生物が 自然発生するのは万物共通の事実である。視よ、木材 が腐敗すれば白蟻が湧く、如何程精白した白米と雖も 古くなれば蛆が発生する。腐敗によって無機質から有 機物が発生するのである。白米を如何に厳重に密封し ても必ず蛆が湧くによってみても、蛆の卵が他から侵 入したのでない事は明らかである。故に結核は非伝染 である事を、何れ医学に於ても発見する時が来ると私 は信ずるのである。 右の理を実証する為私の経験を書いてみよう。私の 家族は私等夫妻の外に子女が六人(其の当時二、三歳 乃至十五、六歳まで)常に同宿していた。そうして十 数年に捗る間、研究の為重症結核患者と大病院に於て 診断された者常に一人か二人同宿さして治療したので ある。少くとも二十数人に及んだであろう。勿論一切 家族と同様に取扱い、食事も共にし食器等も一切消毒 しなかった。私は実験の為患者と子供を同室に寝させ るようにした。その中の数人の患者は私の家で死亡し た事によってみても、何れも重症で医師からは不治の 格印を押された者ばかりであった。然るに十数年を経 た今日に到るも六人の子女は一人の感染者もないばか か何れも健康そのものの様な老ばかりである。此の 実験によってみても結核は非伝染である事は私の断言 して憚らない所である。 故に私は何時でも結核感染の実験をして貰い度いの である。私自身でも私の家族でも、又私の弟子又はそ の家族数万人と雖も欣んで実験台に応ずる事は言うま でもない。之に就て私が以前出版した著書に結核の非 伝染を載せた処、それが当局の忌諱に触れ発禁になっ た事があって非常に残念に思った。何となれば、右の 如く実験に応ずる事を書いたにも拘わらず、それを実 行もせずして独断決定したからである。多分既成理論 を絶対の真理と信じた為であろうが、其の頃の日本当 局者が頑迷で如何に文化の進歩を阻害するに忠実で あったかが知らるるのである。 私の唱える細菌の自然発生説に対し、現代科学者は 嗤うであろう。何となれば彼のフランス細菌学の泰斗 パスツールによる細菌発見説が出て、それ迄の一般科 学者に支持せられていた自然発生説が覆えせられたか らである。それに就て簡単に述べてみよう。 それはパスツールの実験であるが、彼は先ず羊肉の 搾り汁を二つの硝子瓶に入れた。一つは口の曲れるも の、一つは口の真直なものであった。然るに口の曲れ る方は微生物が発生しないのに、真直な方は微生物が 発生したという事実である。それ以来自然発生説は覆 えされ、空気に困る伝染説が信ぜられ今日に至ってい るのであるが、此の原理に就ては後に霊と物質の関係 に就て詳説するから茲では簡単に説明する。 抑々森罹万象の構成は火素、水素、土素であり霊気 は火素を主とし、空気は水素を主とし、土壌は土素を 主とする。又霊気 (火素) は経に上下動し、空気(水 素)は緯に流動する。そうして微生物の発生は熱即ち 火素に因るのであるから、口の曲れる瓶は、経に昇降 する火薬をガラスが遮断する為である。此の理論を最 も簡単に知る方法として、人間が横臥する時は寒く、 起座する時は温暖である、という事実にみても判るで あろう。 又十九世紀の医聖と謂はれたウヰルヘヨウ博士が細 胞病理学を唱えるに及んで近代医学は新時代を劃し たといわれる。それによれば 「人体は皮膚、粘膜、 筋肉、骨髄、毛髪等凡て無数の細胞から成立っていて、 その細胞の一つ一つが生命と生活とを有し、各々の細 胞の生命と生活とが集まって一個の人体を構成してい る。病気というのは詰りそれ等細胞が変性しその生活 が衰えた状態を指すというのが細胞病理学の大体であ る。 例えば肺結核に於ては、結核菌が肺の組織中に侵入 し、繁殖し、毒素を出す為にその部分の細胞が変性或 は破壊され、破壊された細胞は血液中に吸収されて全 身の機能に障碍を及ぼし、発熱、盗汗其の他の症状を 起すのである。 そうして結核患者の熱は、結核菌が肺臓内に侵蝕し て病寵を作り、此の病寵部と菌自身から出す毒素の為 に発熱中枢が刺戟されて発熱する。」 というのであ る。 右の病理説の誤謬である事を指摘してみよう。もし 細胞の生活が衰えてそれが病原となるとすれば、新陳 代謝の最も旺盛であるべき青年期に結核は発病しない で、老年期に至る程発病するという道理である。然る に事実はその反対であるにみても多くを言う必要はあ るまい。 又肺結核に於ける発熱は、菌自身から出る毒素の為 に発熱中枢が刺戟されるというのであるが、一体発熱 中枢とは如何なる機能で如何なる局所にあるか、医学 に於ては頭脳内にある如く解釈しているが、荒唐無稽 も甚だしいのである。私の研究によれば発熱中枢など という機能は人体何れの部分にも全然ない事を言えば 足りるであろう。 以上の如き杜撰幼稚なる病理を金科玉条として来た 医学である以上、今日の如く行き詰るのも又止むを得 ないであろう。 次に結核の特効薬程無数に出現するものはあるまい。 出現当初は奏効顕著として持囃されるが、何時しか忘 れられるというのは如何なる訳であろうか。即ち効果 ある如く見ゆるのは、浄化停止の薬力の偉効あるから である。日本に於ても最近BCG及びセファランチン 等の新薬が推奨されているが之等も遠からず放棄さる る事は火を見るより瞭らかである。 (昭和二十二年二月五日 天国の福音) 先頭へ |